2018年11月10日(土)☀
熊伏山は、長野県飯田市と静岡県天龍村の境にある標高1654㍍の山。
登山口は幾つかあるが、浜松から国道152号線で60㌔の水窪町青崩峠から登る。
青崩峠まで東名・新東名と国道152号線を経て240㌔、4時間のアプローチ。
【山名】熊伏山標高165.7㍍ 青崩ノ頭標高1433㍍ 前熊伏山標高1610㍍
【山域】南アルプス深南部
【コ-スタイム】
11/10 東名大井松田-御殿場で新東名に乗り入れ-浜松浜北IC-国道152号線
-9:50塩の道駐車場…10:00塩の道遺構出発…10:17青崩峠10:20
…10:22青崩れ…11:092つ目崩壊地…11:23青崩ノ頭11:44…11:49平坦地
…12:03前熊伏山12:10…バイカオーレン…12:32熊伏山山頂13:10
…13:43南東斜面崩壊地…14:45塩の道駐車場15:00
かつて青崩峠には、遠州と信州と三河の3国を結ぶ秋葉街道が通じていた。
海辺から内陸に塩を運ぶために拓かれた「塩の道」は、全国に見られるが青崩峠
を越える秋葉古道もその1つだった。
戦国時代には、武田信玄が徳川家康に勝利した三方ヶ原の戦いの際に越えた
と伝えられ、遠山郷と遠州秋葉神社を結んだ往還が盛んだった。
近代に入り、製糸工女として働きに出た乙女たちが越えた道でもあった。
歴史を紡いだ古道も、中央構造線の地殻変動でいつしか廃道化した。
しかし秋葉街道は、青崩峠の分断部分を兵越林道に迂回して飯田に抜け上田に
至る、浜松からの距離256.3㌔の国道152号線として残った。
国は、青崩峠の分断解消を図るべくトンネルを堀り続けているが、青函トンネルの技術をもってしても断層破砕帯を掘り抜く事は容易ではないらしく未だ完成していない。
石碑石仏に加え各種賑やかな案内に混じり、「熊伏山登山口」の指導標があった。
10:20、「滑り易いから気をつけて」と早くも下山して来た登山者から助言を貰う。
整備された階段道で、峠名の由来となった北東斜面の青白い大崩壊地の縁に出た。
長野側が開け、遠山郷へと続くV字の谷にかつて秋葉街道が通っていた。
日本のチロルと称される「下栗の郷」が、V字谷の右手山腹に在るという。
秋葉街道の最難関だったのが熊伏山の東山腹にある青崩峠だった。
ホッサマグナのグリーンタフ(緑色凝灰岩)が剥がれ落ち、青みを帯びた山肌になる。
崩壊地が遠のくと階段道と手すりが終い、木の根を足掛かりの痩せ尾根が始まる。
下り用に細い命綱が付けられた急坂を登れば、青空の小春日和に汗ばむ。
反射板の跡地に残る台座に腰かけて1服、風が冷たく、急登の火照りは直にひいた。
地図に三角点の記号が記載されているので見回すが、見つけられなかった。
標高1450㍍まで登ると今度は静岡側に崩壊地が広がり、南東の展望が開ける。
晴天の割には展望が利かず期待の山は確認できない。
今朝私たちはこの谷間を右から北上してきた。
この崩壊地まで登山道は、大部分が地図より南にずれ静岡側に付替えられている。
3つ目の雨裂記号が混じる崩壊地では、1450㍍近辺で一旦長野側に寄り、崩壊地を過ぎた1480㍍辺りで静岡側に戻っている。
ここから観音山への尾根が南西に分岐する。
熊伏山は右手の北へ向かう尾根に乗る。
主峰熊伏山まで真直ぐに北に延びて、緩やかな傾斜をアップダウンする。
北尾根に乗って2つ目のピークで、ミツバオ-レンが1輪ポツンと咲いていた。
まてよ、葉を見ると5枚だ、三つ葉オーレンではなく梅花オ-レンだった。
5弁あるはずの萼片が2枚しかない、花期は3月から4月だから不完全な狂い咲きのよう、花のない時期、けなげさが愛おしい。
仲間が人声がすると言っていたとおり、3組11名の登山者が既に登頂していた。
12:32、一番に山頂中央に据えられた1等三角点にタッチ。
名古屋からのパーティと登頂記念写真を撮りつ撮られつ、和やかに情報交換。
「そうかぁ~、熊伏山は名古屋の方が近いんだぁ~!」ずいぶん遠くに来たんだね。
左.鎌崩ノ頭 中.丸盆岳 右.黒法師岳 |
左.黒沢山 右.不動岳 |
左.黒法師岳 右.バラ谷ノ頭 |
ただ、麻布山から前黒法師山、バラ谷ノ頭、黒法師岳の稜線は良く見えた。
かつて高桑信一氏が、「バラ谷ノ頭は桃源郷」と語っていたのをヤマケイで読み、黒法師岳のX印の三角点と合わせて興味をそそられ、テントを担いで訪れたことがあった。
熊伏山自体は、特別な山ではなかったが、特色のある地形や歴史が興味深かった。
これらは、熊伏山に上って初めて知りえた事で、山に上るとその地域の理解が進んで身近に感じられるようになる。
山に上る楽しみがここにもあった。